ふるさと上越

上越市

上越市

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上越市は、新潟県の南西部に日本海に面して位置し、北は柏崎市、南は妙高市、長野県飯山市、東は十日町市、西は糸魚川市に隣接しています。平成17年1月1日、14の市町村(上越市、安塚町、浦川原村、大島村、牧村、柿崎町、大潟町、頸城村、吉川町、中郷村、板倉町、清里村、三和村、名立町)の合併が実現し、海・山・大地といった多様な自然を有する21万都市として誕生しました。四季の変化に富み、海岸部を除いた地域は全国有数の豪雪地帯となっています。
高田、直江津などの市街地を中心に宅地化、商業地化が進み、その東側では農業がさかんにおこなわれています。中山間地は山地、潟湖、海岸線が県立自然公園に指定されるなど、自然を活かしたレクリエーションの場として活用されています。
高田市街地は江戸時代からの都市骨格を現在も継承している貴重な歴史的市街地であり、そこには、高田城跡を中心として、日本一の総延長を誇る雁木通り、魅力的な吹抜け空間をもつ町家、66か寺が建ち並ぶ寺町寺院群、明治以降の近代化遺構の洋風建築など、数多くの歴史的建造物が現存しています。

春日山神社 高田城三重櫓 株式会社 藤翔 居多神社 名立海岸 上杉謙信公像 坊ヶ池

株式会社 藤翔

株式会社 藤翔

〒943-0145
新潟県上越市大字今池97番地2
TEL : 025-528-3455
FAX : 025-521-2261

>>会社概要

高田城三重櫓

慶長19(1614)年に築城され、明治3(1870)年に火災のため焼失した高田城のシンボル的存在であった三重の櫓は、上越市発足20周年記念事業として、平成5(1993)年に建設されました。

高田城跡は新潟県の指定史跡であることから、築造にあたっては、絵図や古文書の検討、発掘調査など詳細な調査・研究をもとに設計されました。

規模は、稲葉正通時代の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同様で、外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」をもとに設計されています。1・2階は展示室になっており、高田城などに関連する展示を行い、3階は展望室になっています。

高田城三重櫓

平城の高田城には、他の平城と違った二つの注目すべき点があります。一つは天守閣が建築されなかったこと、二つ目は石垣が積まれていないことです。天守閣は平城のシンボルとして、近世城郭の代表的な建築物とされていますが、それに代わるものとして三重櫓(築城当初は二重の櫓でしたが、松平光長の時代に地震で崩壊し、三重の櫓が新たに建設されました)が建設されました。また、石垣のない平城は珍しく、高田城の特徴とされています。その理由として、大坂冬の陣の直前で工事を急ぎ、わずか約4か月で竣工させたこと、石材が付近になく集める余裕がなかったことなどが考えられます。また、外堀は自然の河川を利用して作られ、非常に幅が広いことが特徴です。

また現在では、高田城址公園は周囲に約3600本の桜が植えられており、全国的にも三大夜桜などと言われ、屈指の桜の名所として名高いところです。 満開となる4月の観桜会には、100万人にも及ぶ観光客がこの地に押し寄せます。

上杉謙信公像

2007年NHK大河ドラマ「風林火山」でGackt(ガクト)さんが演じられています。

戦国時代の雄将、上杉謙信公は幼名を虎千代、元服して景虎、出家して僧名を謙信、不識庵とも号しました。上杉姓を名のるのは、上杉憲政のあとをつぎ、関東管領職となってからです。

春日山城跡からの展望

謙信公は父為景の没後14歳の時、中越地方鎮撫のため栃尾城に入城し、旗揚をしました。6年にわたる滞在で数々の武勲を打ちたて、国の内外にその名声はとどろきました。天文17年(1548)19歳のとき栃尾衆を引きつれて現在の上越市春日山地区に位置する春日山城に入城し、越後の国主となりました。

標高180メートルにある春日山城跡からは上越市街地と豊かな上越の自然が一望できます。越後守護代・長尾為景が修築してから城郭となり、謙信が大改修を行って名実ともに天下の名城と呼ばれるようになりました。

「毘沙門天の化身」、「越後の龍」などの異名を持つ上杉謙信は「義」に生きた武将としても知られています。当時、今川家と北条家が武田家に対し、塩の輸出を禁止する政策をとりました。上杉家は武田家と敵対していたにもかかわらず、「それでは民が一番苦労する」と塩を送ったのです。「敵に塩を送る」という言葉はこの出来事が由来となっています。

春日山神社

春日山神社は戦国の武将・上杉謙信を祀るために建てられました。春日山の麓にある神社には謙信像のほか、空堀や土塁など春日山城の遺構が残る史跡広場もあります。春日山神社には、御祭神である上杉謙信にまつわる資料が宝物館に展示されています。銅像の目線の方向は、武田信玄との激しい戦いを行った川中島を向いているといわれています。

毎年8月には「謙信公祭」が開催され、鎧兜に身を固めた謙信麾下の武将たちによって、境内にて武帝式(ぶていしき)及び春日山城史跡広場で川中島合戦の再現が行われます。このイベントは大正15年から開催され、多くの観光客が訪れるイベントとしても知られています。

居多神社

直江津は親鸞が『念仏停止(ちょうじ)の勅令』のため、配流された際に降立った場所です。僧籍を剥がされ、俗人・藤井善信(よしざね)として越後国府(現上越市)に流された親鸞はこの地で約7年を過ごしました。

上越には親鸞にまつわる寺社や旧跡が多く残されており、居多神社もその一つです。

親鸞聖人御像

居多神社は親鸞が上陸したのち、最初に参拝した神社であるといわれています。親鸞はここで『すえ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらん限りは』と詠み、早く赦免になるよう、そして念仏が盛んになるようと祈願しました。鳥居をくぐり、石段を登ると小さな社と親鸞の像を見ることができます。

ここには親鸞にまつわる七不思議の一つ「片葉の葦(かたはのあし)」が群生しています。親鸞が先の句を詠んだのち、居多神社に生えていた葦が一夜にして全て片葉になったといいます。片葉の葦は西方浄土を向いているとか、常陸(現茨城県)へ旅立った親鸞に引かれて関東の方向へ向いているなどといわれています。

坊ヶ池

昔、仲のいい牛太郎夫婦が住んでいた。ある日妻が池の下の畑で昼寝していると、夢の中に竜が現れ、後日身ごもった。月満ちて男の子が産まれ、坊太郎と名付けられた。坊太郎は元気に育ち、毎日山の池で釣りをしていた。ある日坊太郎が釣りに行ったきり帰らず、両親と村人があたりをさがしたが、見つからない。池に落ちて死んだと思い牛太郎夫婦は悲嘆にくれた。

半月が過ぎ、もう坊太郎は帰らないとあきらめかけていたある日、家を出たときと同じ姿でびしょぬれになった坊太郎が帰ってきた。両親がどこへ行っていたのかとたずねると「すみません」とだけ答えて、「眠たい」と寝間に入った。寝る前に坊太郎は「寝間をのぞかないでほしい」と何度も念を押した。

翌朝、夜が明け切らないころ牛太郎夫婦が、寝間をのぞくと、部屋一面が水をたたえ、竜の子がすやすやと眠っている。竜の姿になった坊太郎は「寝ている姿を見られたので、もう人の姿には戻れない。これからは山の池で暮らす」と言い残し、天に昇っていった。

以来、山の池の主、坊太郎にちなんで「坊ヶ池」と呼ばれるようになったという。坊太郎が池に釣りに行った日は5月9日とされており、地元、青柳集落では現在も同日に春祭りを行っている。

厚生労働省社会保障審議会推薦児童福祉文化財、新潟県推奨優良放送などに指定された人気アニメ「トントンあったとにいがたの昔ばなし」(新潟放送)で紹介されています。

名立海岸

上越市内屈指の海水浴場であり、夕日スポットでもあり、漁港でもあります。中でも観光施設「うみてらす名立」には、地元で獲れた新鮮な魚介類の直売所である「地場物産館・海の楽市」、ミネラル健康水を取り入れたプールや露天風呂などを備えた「健康交流館・ゆらら」から成る複合施設で、「食べる、くつろぐ、遊ぶ」を一度に楽しむことができます。また、宿泊施設も併設されています。

夏になると県内外を問わず海水浴客でにぎわい、花火大会も催されます。

また、漁港ならではの味として浜汁が有名。浜汁は漁師料理として受け継がれたもので、魚介の入った味噌汁を指します。